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木曽の風土にはぐくまれて成長した木曽義仲の生涯は、波乱に満ちた激動の生涯でもあった。 久寿2年(1155)母の小御前と共に武蔵の国から木曽に逃れた駒王丸(のちの義仲)は2歳の乳のみ児だった。 駒王丸は2歳にして父を失ない、幼少にして母も他界し、不遇な幼年期を中原兼遠のもとで成人した。 木曽における25年の歳月が流れた治承4年(1180)、後白河法皇第二王子以仁王の平氏追討の令旨を受けて、宮の原に挙兵した木曽義仲は27歳の立派な武将に成長していた。この間武将としての資質を完成するに至った恩恵は、養父中原兼遠とその一族の義仲を見まもって来た、有形無形の愛情に依るものと云える。 寿永2年(1184)7月28日、義仲は都に入った。 元暦元年(1184)正月6日従四位下に叙せられ、そして10日征夷大将軍の宣旨を受けている。 激動の乱世をひたすら大義名分ひとすじに生涯をつらぬき、この年正月21日31歳の青春を粟津ヶ原に散華した。 英雄木曽義仲を綴る歴史は、治承・寿永の激動期に燦然と輝きを放つにもかかわらず、後世あまりにも軽く扱われていたのである。 そして又見落とされている部分がかなりあることを指摘したい。 『平家物語』は木曽義仲の記述に関しては、その評価が正当か、と云うことになると問題である。その理由として記述が偏見的であるばかりでなく、実に嘲笑的な筆づかいをしている部分があるからである。そうかと思うと巻九「木曽の西後の事」の一節は、義仲の滅びの美化について、非常に感銘深く読む人の心を打たずにはおかない。義仲の記述にはこのように矛盾があるのである。 後世流布されている義仲のイメージはかなりゆがめられているのであって、実際とはかけ離れてうけ留められていると云える。 歴史の解釈は史実と根拠に基づいたものでない場合は、歴史がゆがめられて残されてゆく危険がある。そのことが他の文献によって傍証されないものは、錯誤があった場合を考えるとそのまま従うことは危険であると思わねばならない。 本書は木曽義仲の評価に混乱を与えてきたものは何であったか、この事実を史料の見直しと著者自身の考証によって正し、真実の義仲像とその生き方を究明したいと思うのである。
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