松本方面/
事務局とその周辺の
ご案内


当会事務局は、木曽義仲の伝承豊富な松本平にあります。

事務局

長野県松本市波田5904-5(千村方)

   


松本城1


松本城2


信濃国府跡


長称寺


今井神社


今井神社由緒書


宝輪寺


光輪寺薬師堂


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松本城(深志城)

松本平といえば、何と言っても「松本城」。
……けれども松本城の前身ができたのは、木曽義仲の活躍した平安末期からは数百年もあとの話で、直接関係はない。
地理的には、義仲や中原兼遠もゆかりの深かった信濃国府から間近である。
さらに下って戦国時代、木曽義仲の裔孫といわれる木曽義昌は、武田征伐の勲功によって織田信長よりここに10万石を与えられ、松本城(当時は深志城)を拠点として領地経営に着手した。ところが3ヶ月後に信長が本能寺で明智光秀の謀反によって殺され、木曽家の本願は成就されることなく終わった。
たった3ヶ月ではあったものの、ここ松本の領主となった木曽家のことは、残念ながら松本城の案内板には入っていない……。

 

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信濃国府跡推定地

松本市惣社(そうざ)にある『惣社伊和神社』の大欅と案内板。地字などから、この辺り一帯が信濃国府であったと推定される。過去数回の大規模な発掘調査が行われたが、文化庁認定に必要な国府との確証を得られるには至らなかった。しかし、義仲や中原兼遠らがこのあたりを行き来していたことは間違いないだろう。
この地続きに“清水”地籍があり、長子清水冠者義高が住んだとの伝承が残る。

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長称寺

『木曽山義仲院長称寺』というのが正式な寺名。松本市女鳥羽にある真宗大谷派の寺で、義仲の三子義基が開基となっている。
寺伝によると、義仲没後に覚明が義基を連れ帰り、木曽に隠れて再起を図った。しかし覚明は頼朝の手により捕らえられ、後、越後の親鸞上人の法弟となった。その後は義基のいる木曽に行って草庵を建て、これが長称寺の前身となったとか。

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今井神社・續麻(つうそ)神社

松本市今井にある今井兼平ゆかりの神社。
入口の由緒書(写真下)には、以下のように書かれている。

續麻神社は祭神天棚機姫命で上今井村の産土神である。

天棚機姫命は建御名方命の御孫に当たられ本村社宮司附近に居を定め、機織及び農業を司って居られた。延喜年間洗水川畔に社を建て、續麻神社と申されたと伝えられる。
一説に、天棚機姫命は朝日村鉢盛山□苧畑(ヒル畠)に居られ機織を授けられたが、オンボケ(苧桶)と一しょに川を下り今井の地に上がられたともいう。
古来氏神として尊崇されると共に、お産の神として名高く、今井はもとより近郷より安産祈願するもの多く、願果たしたには柄杓の底を抜いたものを上げるならわしがある。
大正四年地区内の 神明社 山神社 水神社 白山社 富士浅間社 七柱を合祀し、昭和二十二年現在の地に遷宮された。

今井神社は又の名を 兼平神社 ともいい、旭将軍木曽義仲四天王の一人、今井四郎兼平公と大鶴鷯尊を祭神とする。
伝うるに、兼平公は元来本村に住し義仲公義兵を木曽に起こすや主君に従って信州より北越を略し京都に上る。江州粟津ヶ原の戦に討死をとげた。足利尊氏義仲 の遠孫家村を木曽に封じ義仲の祀りを起こさせた時に、今井村は木曽家村に属していたので、有志の者、応永年間、兼平公の霊を祀ることを木曽家に請い社を建 てて祀った。
尓来上下今井村民氏子として祭を絶やさず、特に五十年忌毎には大祭を行って今日に至った。
元文五年、当方にあった若宮社を合祀した。
この地はもと、兼平公の館のあったところ、社の前の道は、兼平公、尊崇した西洗馬薬師堂への参詣道といわれている。


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宝輪寺

松本市上今井にあり、開基を今井四郎兼平とする真言宗の寺。
写真の山門は、中山道木曽贄川宿本陣千村家のものを移築したという。千村一族は木曽義仲の末裔と伝わり、この贄川千村家も明治まで連綿として続いたが、現在はない。

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光輪寺

東筑摩郡朝日村にあり、行基が開基という真言宗の古刹。
治承4年(1180)木曽義仲の中興開基により、位置を山中から現在地に移して堂宇を建立。後に黒印36石を給わった。
写真は、庫裡から少し離れたところにある『薬師堂』で、ここには木曽義仲の位牌が安置されている。また木曽義仲の書状と伝わるものが1通、寺宝として大事にされている。

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